映すは蒼
気がつくと知らない場所にいた。薄暗くどことなく底冷えするような空間。
絵本に出てくる所謂神殿みたいな、石造りの建物。どこからやってきたかわからない、どこまでも続く水路。底冷えするのは水路の段差や合流でおこる水しぶきからだろう。空(のようなもの)には星のような煌めきが広がっていてすべてが非現実的だった。まるでおとぎの国だ。
「氷海」
突然声が後ろからした。振り返ると同い年ぐらいの男の子が一人、こちらに慈愛ともとれるような優しいまなざしを向けて立っていた。どこからともなく現れたのかわからず驚いた。
「あなたは誰?」
「鏡の妖精さん、かな」
「妖精……」
妖精と呼ぶには彼はファンタジー色に欠けている。目の前の青年は学ランを着ていて、さらに言えばその顔はなんというか、髪色も肌の色も違うのだが学園の問題児を思い出させて頭痛がしてきた。一気に現実に引き戻された気がする。私の困惑した表情をなんととったか知らないが自称妖精さんは少し寂しそうな顔をした。
「はは、冗談だよ。俺は水鏡と昔から呼ばれている。だから君もそう呼んでくれると嬉しい」
元来の性格なのか笑顔なのにどこか物憂げに自己紹介する彼。水鏡という響きにどこか懐かしさがあった。だからこそ突然現れた見知らぬ、距離をつめてくる男に警戒心は抱けないでいた。昔どこかで出会ったのだろうか。それとも夢だからか。そうかこれ、夢か。
「これ、夢なの?」
「そうだな、夢……夢だよ。
っていてて!なにするんだよ!」
試しに彼の頬をつねってみても痛覚で目が覚める感じでもなかった。私の体温も相当低いが水鏡はそれ以上に冷たい。触覚、温覚はきちんと冴えている。感覚はいつもとあまり変わらず現実かとすら思う。現実とは言い難い空間にいるのは確かだが。ふと痛そうに頬をさする水鏡を見て申し訳なくなった。そこまで強くつねったつもりはなかったけれど。
「ご、ごめんなさい。気が動転してて。頬をつねったら目が覚めるかなって」
「俺をつねっても意味ないだろ……」
確かにそうだった。とはいえ自分の頬をつねってみても痛いだけで目が覚める様子はなかった。
「そうだ。どうせ夢の中だ。目覚めるまで一緒に散歩でもしないか?」
たしかに暇つぶしにもなるかもしれない。どうやっても起きることも難しそうだし、その必要も特にない。悩んでいてもしょうがないわけで、この道を進んだら何があるのかも気になる。いろいろ考えた結果彼についていくことにした。悪い人ではなさそう、という自分の直感を信じて。
とても素敵なところね。ここ。そんなことを言ったら、何もないところだよ。と彼は答えた。彼は伏目がちにどこか寂し気だった。
しばらく一緒に歩いてみたがなるほど、彼がそう言うのもわかる世界だった。どこまで歩いても景色は変わらずただ石畳と水がそこにあるだけ。天井の煌めきだけでは薄暗くて。彼の灯した蒼い炎だけが頼りだった。彼とは本当に他愛のない話をずっとしていた。この世界のこと、私の周りのこと。彼の話は面白くて夢の住人の割によくできている。だからこそ何も変わらない景色でも飽きず、むしろ楽しくてしょうがなかった。
「あなたは何もないなんて言うけど、なんだかお伽噺の世界みたいで私は好きよ。星がとっても綺麗。ずって見ていられそう」
本心からなる言葉だ。一人じゃつまらないだろうが、彼がいることで何倍も素晴らしい場所に感じた。
「気に入ったのならなによりだ。
まだ好きなんだな。お伽噺」
「今はあまり読まないわよ。
小さい頃にね。特に白雪姫とか。それに憧れてよく鏡に話しかけていたの」
あれ。お伽噺、白雪姫、鏡よ鏡。
水鏡、ミカガミ……?
「あ」
全ての点が繋がった。思い出した。なつかしさの正体がわかった気がする。だから彼は幼い頃から知っているかのように話していたのか。
「あなた、小さい頃の」
「思い出してくれたんだな」
そう、彼は鏡の中にいたお兄さんだ。あの時から彼は変わっていない。
私が成長したからもう同い年ぐらいになってしまったけれど。親がいつも忙しくて一人だった私の遊び相手だった人。いつかを境に現れなくなった人。
そして私が忘れてしまった人。
「ごめんなさい、私。あなたのこと忘れてた」
びっくりするほどきれいさっぱりいままで記憶から消えていた。鏡と話していたのは記憶違いではなかった。イマジナリーフレンドでもお化けでもなかった。多分。
彼は何者なのだろう。それこそ鏡の妖精なのか。彼は特に忘れられたことに気を悪くしている様子はない。むしろ思い出したことに喜んでいる様子だった。物憂げな雰囲気は拭えないが。
「人は忘れるものだから。むしろ思い出したことに驚いてるぐらいだ」
彼がいるということはここは鏡の中の世界なのだろうか。